「声帯の扱いを学ぶレッスンか、人が聴いて良い声だな」と思うテクニックを学ぶか・

 道具の使い方を学ぶか、「おいしい味の出し方を学ぶか?」の違い・

世の中には、沢山のボイトレ教室がありますし、沢山の先生がいます。

私もその中の一人です。そして、メソッドも星の数ほどあると言えます。最近冷静に色々な事を分析しているのですが、大きく分けると3つくらいに分けられるのかな?と思っております。

1つめ、声帯の使い方に特化している先生

2つめ、声楽の先生に多い、表現力を通した声の出し方を学べる先生

3つめ、個性を大事にしつつ、パーソナルトレーニング的に補足と鍛錬を行う先生。

という感じです。私の場合、確実に3番に該当します。昔は2番の違いレッスンをしておりました。1番は、私の場合あまり該当しません。

皆さんは、「この方歌が上手いな」と思う条件をどこで決めているのでしょうか?

私は、「声帯のつかいかたなど」、(体も含めて)道具の使い方を学んでも、それを活かして自分が何をしたいか。どの声を目指したいか、その後、どう表現したいか。この3点を明確にしておかないと、どうしても誰かの歌い方、だったり、使い方を学ぶ止まりになってしまう。というリスクを感じています。

実は、歌に限らず私のレッスンの中で「外国語映画吹き替え」のレッスンをするときにもこの感性はとても活きます。皆さんも想像できるかと思いますが、英語には日本語と違うリズムがあります。そして、リズムと同じように英語独特のトーンがあります。

そして、それらの言語を扱うという事は、体にそのトーンやリズムがしみ込んでいる。という事です。日本人にはないトーンやリズムです。

日本語で我々はアテレコをしますが、この時にこれらのトーンやリズムを認識できていることはかなり大きな事なのです。

最近レッスンをしていて感じたのは、外国語映画吹き替えのアテレコを聴いたときに「なんか、この人違和感がある」と思われたら、間違いなくそれは日本語のリズムやトーンにのみとらわれている。そして、日本語のリズムやトーンで「それっぽく表現」しようとすると、どうしても自分の体から離れた場所に声を置くことになります。

吹き替えの様に絵があるものではない、純粋な舞台演技でも、うまい人の声は自分の体に声がくっついている感覚があります。要は、おなかから声が出せているという感覚は、実は自分の声が体にくっついているような錯覚=体全身を使って声を出せている。という事になるのです。

これは演技全般で絶対必要な事だと思います。これを目の前にある「絵」にあてようとした時点で、それは絵をなぞっていることになりますから、違和感が出ます。

代表 ミヤジマチホ記

 

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