身心一如(挙禅一如)ということ。

身があってこそ心が存在するという事。

今日の記事は、「ここぞ」という方、ムラーラの生徒さんには特に見つけて読んでいただきたい記事です。実は、ムラーラは色々なブログコンテンツやSNSを使って発信をしてきました。YOUTUBEなども、初めは全然登録者数もいませんでしたし、内容も薄くて、全然ダメでした。ですが、私自身が「良い」と思ったものを積極的に取り入れることによって、探したい方が、いつの間にか自然に見つけてくださるようなサイトになっていきました。

「ボイストレーニングの真意」

先ほどの続きとなります。ここ最近の「ムラーラのブログ」をご覧になってくださっている方はお気づきかも知れませんが、ここ1年以内にブログで発信する内容が大きく変わってきています。今、このHPのメインサイトに掲載している記事に関しては、「戦略を打っていません。」

これはどういうことかと申しますと、実はムラーラミュージックオフィスのHPは、世の中のボイストレーニング業界が、まだ「ボーカル中心のトレーニング教室」だったときに、いち早くビジネス、や一般の方向けのボイストレーニングを中心として発信を続けてきました。実は、つい最近聞いたお話のなかで、「自分はボーカリストとして、ボイストレーナーとして勤めてきたが、時代が変わって柔軟でなければならないと気づいた」という方がいらっしゃいました。私にとってはとてもありがたい情報でした。その中でおっしゃってたのが

「今や、スピーチであろうがボーカルのトレーニングも必要だし、その逆も必要なのでコースの垣根がなくなってきている」というのです。

まさに、うちがやってきたそのものの形が今そこにあるのです。

メンタルの重要性を打ち出す必要がなくなった。

これは私の出した答えです。「メンタルトレーニング」をあえて「ボイストレーニング」のカテゴライズの一つにする必要がないという結論に至りました。

タイトルにあります、「身心一如」という言葉は仏教用語ですが、体があってこそ、そこに魂が宿るので、心は体が無くなっても永遠に存在するものではない(私独自の解釈ですが)という理解をしました。

もっと砕けた考え方をしまして、「体の調子が整えば、おのずと心もついてくる」という事に行きつきました。

良い声を出すことに必要なのは、「バランス感覚」

ある生徒さんがレッスン中に突然大きな声を出しました。「ああ!」と。私は何だなんだ?と思ったわけですが、「先生、これって禅ですね!」というのです。禅と言われると座禅のイメージしかないんですが、まさにそれの事で、「声を出すのにバランス感が必要なんですね?」というのです。

声を出す上で必要と私が考えるバランス感。

1 頭を支えるのは首であり、またその首を支えるのが胴。過緊張であったり、上半身過多の重力感、下半身過多の重力感覚は結果的に良い声は生めないと考えています。

2 上記に加えて左右のバランス感も必須。左右でどちらかに偏りがあっては駄目。そうなると、かみ合わせの偏り、重心の左右の偏り骨盤のゆがみもよい声は生めない要素になります。

3 方向性の偏り。「声を出す」という向きの偏り。車の運転と同じく、意識したほうに人間の「目の方向、舌の方向、動作」は向いていきます。その前後の方向性により、意識の過重もよい声は生まないバランスになります。

と、重要なのはここまで読んでいただいて、どの程度頭の中でイメージが出来ましたでしょうか? ̄ ̄ ̄ということです。

恐らく私の生徒さんはブログを読んで「ふむふむ」と思っていらっしゃると思います。なぜなら、レッスンで常日ごろより同じような内容の事を説明しているからです。体で覚えている人もいれば、言葉と感覚で覚えている人もいると思います。要は、経験してみないと結局のところ、説明を受けたところで、実際の体感までは難しいという所だと思います。

挙禅一如の意味

これはブログのタイトルにも書きましたが、少林寺拳法の教えだそうです。「身心一如」とはまた少しニュアンスが違いますが、大本は同じです。「心と体は切っても切れない関係だ」という事。体を鍛えたければ心を鍛えなさい。という所でしょうか。はい。実は上の「声を出す上でのバランス感~」は、どちらかというとロジカルな部分です。技術です。ただ、たとえ理論や技術を知っていてもコツコツと続けられるメンタルの強さがなければ全く意味がない。と思うのです。

「このブログ面白いな」と思って読む方と「何だこれ、不愉快だ」と思って読まれる方と、これも当然意見が分かれるところだと思います。ではその違いはどこにあるかというと理由は一つだけ。「経験値だと思います。」

人は経験をする数によって、偶然の機会が増える。

スピリチュアルの世界のことを毛嫌いする方が少なくない日本ですが、外国の方から見たらある部分では「スピリチュアルは必然だ」と思うのではないかと感じます。。私はスピリチュアルな物事に関しては「大いに賛成型です」。なぜならスピリチュアルは非現実的なものでも何でもない、ただの「超現実」だからです。

https://ameblo.jp/shimokao1226/theme-10080469256.html”]

私のおすすめのスピリチュアルカウンセラーの方です。

仕事のブログではあまりスピリチュアル色は強く書かないようにしていますが、「芳(かおり)さん」の存在は、通常の「カウンセラー」としての意味合いとしてもとても深いお話が出来る方だという認識です。

ここ最近気づいたことは、経営者の方や、何かを成し遂げる人は、たとえスピリチュアルというツールに言及しなくても、同じような経験をしている。

という事です。宗教の話を日本人がタブー視するのは、どこかで「偶然性」であったり「奇遇なもの」であるという認知がそこに存在し、説明に値しないものであったり、「経験がないものに対しては警戒する」という国民性の表れが強く表面化しているものなのかな?と考えたりしています。

結局私は、カウンセラーの民間資格を取得しましたが、「カウンセラーとしてのお仕事は一切していません」。しかし日常はどう見てもカウンセラーかそれ以上の仕事事情を抱えています。

多いときで、ライン、メッセンジャー、SNS。すべてのツールを使ってレッスン後に10人前後の方とのやり取りをしています。(レッスンに関する事だったり声の不安だったり)。

しかし、解釈は違えど、私が出す答えは同じなのです。「マイナス方向にドライバーを回すべき」。

ということです。言葉の発し方はみなさんそれぞれです。「歌がうまく歌えないんだけどどうしたらいいか?」とか「自分は人からどう見られているのかが気になる」というものだったり。それはそれは様々です。ですがよくよく蓋を開けてみると「基準値を設定していて、自分をそこに充て込めてしまう」。あるいは「普遍的なものに自分自身をあわせようとしてしまう」。という事が見られる気がするのです。

私は「やってやれないことは何もない。」と伝えています。もちろんどうしても難しい事はあると思いますが、たいていはそれに当てはまらないと思っています。

自分の声と向き合う瞬間は、体も声も呼吸も頭も作用しようとする。

 ̄ ̄ ̄ ̄「何でわかるんですか?」

この言葉は結構聞き飽きました(笑)。「霊能者か何かですか?」これも同じです。声を聴いて、その方の体の癖、心の癖、バランスのとり方、口の中の状態、昨夜の睡眠不足、飲酒、その他諸々の情報が声を伝ってやってきます。

これは私の仕事です。でも情報をシェアすれば、生徒さんも経験値が高くなります。ですから、以前より自分に興味を持つようになります。「俺って今どういう状態なの?」と。

自分の知らなかった一面を知ることが出来たり、経験したことのない体の事や声の状態を経験する。また、「変わっていく自分の成長」に関しても認識をしていく。

これが最大の経験値であり、また自信に変わっていく。のだというプロセスを何百回、いやもっと見てきているだけです。ですから、そういう経験値が私にはあるだけなのです。そうなると私自身も「良くすることが出来ない声はない」という自信に変わりますから、トレーナーとしても自信がつくわけなのです。

これだけ書けば一番言いたいことはつたわるでしょうか?

経験に勝るものなし。という事で、ボイストレーニングを通じて多くの方が現実的に変わっていくのはこういった理由なのだという事です。

心と体は一つのものですが、今のうちのスタンスは「よりロジカルなメソッドを開発して、生徒さんにシェアをして、生徒さんの経験値を上げていくこと」。

これのみです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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